塩釜のホテルから仙台市の荒浜小学校へ、9時ごろ到着する。まだ校門が閉まっていたので、周りを車で回っていると、車が来て、開門された。門の方へ行くと、管理されている方なのか、「本日は休館日ですよ。周辺に震災遺構がたくさんあるので、そちらを回ってください。」とのこと。それぐらい調べてから来いよと言われているようで、「計画的に取り組んでいないもので。」と自分につぶやいた。確かに、小学校の南東に広がる浜辺までの更地は山形の歌手、白崎さんの「更地のうた」に出てくる世界。残された日常の跡は13年間止まったままの世界。寄せては返す波の中で止まったままの世界だった。引き波で抉り取られた地面の痕跡がよく分かるように残っていた。しばらくの間、防波堤の向こうの砂浜に立ち海を眺めていた。
その後、名取市の閖上へ、メモリアル公園、閖上の記憶を見学する。そこには、潮風ロングトレイルを紹介する建物があった。環境省が企画した取り組みのようで、三陸海岸をロングトレイル(自然の中を歩いて回る)する巡礼街道のようなものらしい。宿泊施設が適度な距離の間に存在しているのかどうか気になった。この三陸のトレイルだけで10分割されているということだった。気になるアクティビティだ。そこにあったエコトイレを使用させてもらった。木くずの良い香りが漂うリラックスできるトイレだった。
次に、山元町の中浜小学校へ向かう。ここでは、10メートル強の津波が押し寄せ、2階の天井まで届いていたとのことであった。先生方は震災直後、10分で10メートルの津波が押し寄せると情報を把握され、避難地までは20分かかるので10分では間に合わないと思われた。10メートルならば、地上げの2メートル、1階4メートル、2階で8メートルなので、屋根裏部屋ならば助かる可能性があると校長先生は判断され、仕方なく、垂直避難を決断されたとのことでした。普段から、津波避難地まで距離があることを理解され、会議で話し合われていたからこそ決断が早く実行されて、情報通りの津波の高さだったからこそ助かった。と説明された方はそう言われていました。決断したときの校長先生のVTRが残っており、「最後90名が屋上に上がり2階への通路の蓋を閉じるときの感覚は忘れられません。」とのことでした。現実は、津波が押し寄せるまでの時間は20分以上あり、これで助からなければ判断ミスと言われても仕方がないと考えられていたようです。津波が押し寄せた夜は耳元で波が当たる音がして恐ろしかったということでした。この一晩がどれほど恐ろしくて長い時間だったか想像するだけで身がすくむ思いです。ここでは、正確な情報の大切さと、判断することを事前の話し合いをして、教職員の間で意思の疎通を図っておくことが大切だと言われていました。当時、翌朝、小学校の屋上からたくさんの人が手を振っていたのがこの小学校です。また、現場の掲揚柱は津波の高さになっているとのこと、掲揚中の下に行くと、10メートルの高さに改めて驚き、恐怖を感じました。
その後、浪江町の請戸小学校へ、ここでは全員が近くの山の避難地へ避難したとのこと。教頭先生は保護者の迎えに対応し、山で合流することを伝えてから避難されたとのこと。避難場所がどこにあるか、情報をどれだけ正確に把握すかで、決断はおのずと変わってくるなと思った。「命てんでんこ」が心にしみる。その後、原子力災害伝承館へ、隣にある浪江町の商工会館と伝承館立派さに唖然。更地の中に2つの建物が立っている。周りの更地は震災公園になるらしい。美しくカッコいい建物の中の原発災害の紹介は何か他人事のようで、あまり緊迫感を感じられないのはなぜでしょうか?伝承館のイメージが原発の災害を終わったことにしていませんか?と思うのは的外れでしょうか?
この周りの広大な敷地の震災公園がロングトレイルの野営地、休憩地になれば、若い人は震災地を巡礼して回れるのではないかと強く思った。楢葉の道の駅へ、夕食は名物のすいとんを食べる。道の駅ならはに泊。




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